あるところに載っていたお話の添付です。
URLは忘れましたが、いい話なのでシェアします。
イタリアのサッカーの試合で、ゴールエリアのファールを取られてフリーキックになったことがありました。
誰もがエーッとなりました。 攻めている側もわかるミスジャッジでした。
サッカーは、ミスジャッジも含めたゲームです。「いただき」でシュートを打っていいシーンです。 フリーキックをする選手は、フワーンと蹴って、わざとはずしました。
誰もが大拍手です。 最終的には、わざとはずしたチームが勝ちました。 サッカー場にいた人は最高のシュートを見たのです。
両チームとも「いまのは誤審」とわかって、もう1つ上の試合をしています。 見た目の試合に勝って生き残るよりも、記憶の中に生き残っています。
みんなの記憶の中に生き残ると同時に、気持ちが自分自身の人生に残ります。 審判に決められることではないのです。
ギリギリセーフかギリギリアウトかは自分の中の判断です。 ぶちキレそうなところを「危なかった。いま怒るところだったよ」というのはセーフです。 ぶちキレそうだったのがぶちキレていません。
「許した」もセーフです。 審判のミスジャッジに、「いまのはおかしい」と食ってかかるのを、ファンは見たくありません。 審判に食ってかかるのを見たくて、競技場へ行っているのではないのです。
ミスジャッジでも「いまのファールは厳しいよね」と言いながら見ています。 そんなこともあると、選手も見ている人もわかっています。 審判も「しまった」と思っています。 すべての人がここで救われるのです。
これが大人です。 子どもは、みんなが感動しているのを見て「スポーツっていいな」と思います。 ただ勝つよりも上の世界があるのです。