妄想族のWakWakレポート

脳内で湧く『妄想』を好き勝手書き散らします。

流れは共同幻想。

またも引用で申し訳ないけど。

と、思うこともすることは無いんだなぁと、思うようにしよう。

自分でこれは紹介したい、と思ったのだかから

あんまりその辺りを気にするのはやめよう。と。そうしよう。

で、本題。
今日のほぼ日刊糸井新聞の今日のダーリンより。


・野球を観ていると、よく「流れ」というものを感じる。じぶんでも、そういうものを感じながら観ているし、解説者も、よくそれを口にする。「流れを変えたいですね」であるとか、「流れ的には‥‥」だとか「流れが途切れた」とか、よく語られます。試合をしている選手や、ベンチの監督も「流れ」を意識していることがよくわかります。

なんでしょうね、「流れ」ってねぇ。攻めるほうと守るほうが、利害は相反するのに、同じ「流れ」を感じるからこそ、その「流れ」が実現してしまうんでしょうね。「やれるぞやれるぞ」と攻撃側が感じている「流れ」を、守備側も「やられそうだぞ」と同じように感じるんです。そういう「流れ」というのは、これまでの経験の蓄積が感じさせることでしょうから、いわば「同じ夢」といいますか「共同幻想」ですよね。だから、緊迫した短期決戦などで、外国人選手であるとか、変わり者っぽい選手が、「空気を読まない」大活躍をしたりもするわけでしょう。いや、しないことも、おおいにありますけどね。

で、ね。ぼくは思ったですよ。やっぱり、「流れ」をどう解釈するかの対決だな、と。一般的な「流れ」に巻き込まれちゃだめなんですよ。例えばね、ノーアウトで二塁打が出て、走者二塁。次と、その次の打者二人がアウトになったとき、「流れ」はこのまま無得点でチェンジっぽいでしょう。両方が、なんとなくその「流れ」を感じている。そのときに、逆に「ツーアウトから二塁打が出た!」と、同じ景色の読み方を変えるんですよ。こっちの「誤読」に説得力を持たせれば、相手の考えてる「流れ」は勢いがなくなるわけです。

‥‥あ、笑ってる? 本気にしてないでしょ。ちがうんだよ本気なんですよ、「流れ」は読んでつくるものだと思うんだ。問題は、その読み方の説得力じゃないのかなぁ。



なんだかすごく良く分かります。

そんでなんだかすごく麻雀がしたくなった。

流れは作るものなんだなぁ。